沿 革

町史や寺院風土記などとは違いがございますが、歴代住職に口伝されてきた沿革と歴史です。

 当山は江戸時代後期(1819年頃)に貫田喜左衛門道知という方の発願により、蘭渓智秀(らんけいちしゅう)師と月光祖明(げっこうそみょう)師というお二人の尼僧さま(女性の僧侶)をこの地にお招きし、築かれたのがその始まりとされております。

 江戸時代、この平生近辺は「大野毛利家」によって治められておりました。その大野毛利家が行った大きな事業の中に「防長四白(ぼうちょうよんぱく)」と呼ばれる4種類の白いもの(米、紙、蝋、塩)の生産力強化のための土地開発がありました。

 その中でもこの平生の地は大規模な塩浜造成のための干拓工事が行われたそうです。しかし、すべてを人の手で行っていた当時の工事は困難を極め、作業途中に大きな事故に見舞われ、大勢の方が犠牲になられました。

 後に工事は完了し塩浜での製塩が始まりましたが、あるとき夜遅くに塩浜の近くを歩いていた人が、そこに人魂がフワフワと浮かんでいるのを見てしまいました。恐ろしくなったその人は、村の長老にそのことを相談しました。すると当時、塩浜の開発に尽力されていた貫田喜左衛門道知さん(田布施町国木の大庄屋さん)に知恵をお借りしようということになりました。

 貫田さんは、「それは干拓工事中に犠牲になった方々の人魂だろう」と心を痛められ、その御霊の菩提を弔うため、また過酷な労働条件の中働いてくれている製塩事業従事者が安全でいられるようにと、私財を投じて塩浜の傍に庵を建てて、当時大島(現在の大島郡)のお寺で修行されていた蘭渓智秀師と月光祖明師をこの地にお招きしたのが当山の始まりだと言われております。